CHAPTER 14 京印章・京都
京都と篆刻の歴史|文人が愛した落款印と印聖・高芙蓉
京都と篆刻の歴史を、江戸時代から昭和まで順にたどります。落款印を彫る篆刻とは何か、宇治の萬福寺と売茶翁、「印聖」と呼ばれた高芙蓉とその門人、明治の御璽を取り上げます。いまの京印章とのつながりも、事典の記述をもとにまとめました。
公開日: 2026年10月10日
書道や水墨画を習い始めると、作品の最後に押す落款印のことが気になってきます。調べていくと「篆刻(てんこく)」という言葉に行き当たり、京都の文人(詩や書、画に親しむ教養人)の名前が次々に出てきます。この記事では、篆刻とはどんなものかを確かめたうえで、京都と篆刻の結びつきを江戸時代から順にたどります。いま京都で作られている印章とのつながりにも触れます。
篆刻とは、書や画に押す落款印などを、職人に任せず文人が自分で石に彫ることです。日本には江戸時代の初めに、明の文化とともに伝わりました。江戸中期、京都に出てきた高芙蓉(こうふよう)が手本にしたのは、2,000年ほど前の中国、秦・漢の時代の古い印です。その格調の高い作風から、高芙蓉は「印聖」と呼ばれています。門人は江戸にも広がり、流れは明治の初めまで続きました。いま京都で作られている京印章も、同じ漢の時代の印の作風を受け継いでいます。
篆刻とは|文人が自分で石に彫る印
デジタル大辞泉では、篆刻は「石・木などの印材に字を刻すること」とされています。書や画に押す印には篆書体の字を彫ることが多いので、この名前が付きました。日本大百科全書はもう一歩踏み込んで、書画の落款印など、実用以外の趣味の印を彫ることだと説明しています。とくに、職人に任せず文人が自分で彫ることを指す、とも書いています。
中国では、篆刻は詩・書・画と並ぶ文人の芸とされてきました。世界大百科事典によると、元の時代の終わりごろ、彫りやすく見た目も美しい石が印材に使われるようになります。明の時代には文彭(ぶんほう)が刻印を芸術の域にまで高め、文人の篆刻の創始者とされています。同じ「印を彫る」でも、契約書や届け出の書類に押す印鑑とは、目的も作り手も違います。
書や画を手がける文人が、自分で彫ってきました。いまは篆刻家に頼む方もいます
作る人印章店の職人が、注文を受けて彫ります
蝋石(ろうせき)の仲間の、やわらかい石が中心です
材料柘、水牛の角、象牙など、何十年も使える硬い印材です
書や画の作品、手紙、蔵書
押すところ契約書、役所や銀行の書類
篆書が中心です。雅号(作品に使う別名)や好きな言葉も彫ります
字本名を、篆書体や印相体などで彫ります
作風と、側面の銘や鈕(つまみの彫刻)まで含めた美しさ
大切にされること印影がほかの人のものと同じにならず、照らし合わせやすいこと
京都と篆刻の歩み|江戸時代から昭和まで
京都と篆刻に関わる主な出来事帯の長さは、それぞれの時代の長さに合わせています
- 1654年明の僧、隠元が来日する
- 1720年ごろ売茶翁が京都に上る
- 1740年ごろ高芙蓉が京都に出てくる
- 1784年高芙蓉が江戸で亡くなる
- 1874年京都の安部井櫟堂が御璽を彫る
- 1935年園田湖城が篆刻に専念する
篆刻が伝わったころの京都|宇治の萬福寺と売茶翁
世界大百科事典によると、中国の文人の篆刻が日本に広まるのは、明の王朝が滅んだあとです。日本に渡ってきた僧の独立(どくりゅう)や心越(しんえつ)が、江戸時代の初めの文人たちに伝えました。独立は1653年に長崎に来て、翌年に来日した隠元(いんげん)の弟子になった、黄檗宗(おうばくしゅう)の僧です。心越はのちに水戸に招かれ、その教えを受けた人たちが江戸で篆刻を広めました。
京都との縁で欠かせないのが、隠元が1661年に開いた宇治の萬福寺(まんぷくじ)です。この寺は、建物の配置から儀式の作法まで、明の様式を取り入れていました。萬福寺で修行した僧の1人が、のちに売茶翁(ばいさおう)と呼ばれる人物です。1720年ごろに京都に上り、東山に茶亭を構え、東福寺や嵯峨など人の集まる場所で煎茶を売りました。そこで文人や名高い僧たちと親しく交わったと、世界大百科事典は書いています。
明の書や煎茶、詩文を楽しむ文人の輪が、江戸時代の京都に生まれていました。篆刻も、そうした文人のたしなみの1つとして根づいていきます。ただ、この時期に流行したのは、明の末から清の初めの装飾的な作風でした。秦・漢の古印のような風格はなかったと、同じ事典は評しています。
印聖と呼ばれた京都の高芙蓉
世界大百科事典は、江戸時代の日本の篆刻に最も大きな影響を与えた印人(篆刻家)に、京都の高芙蓉を挙げています。高芙蓉は1722年に甲斐(いまの山梨県)で医師の子として生まれ、20歳のころ京都に出て儒学を学びました。詩文や書画にすぐれ、なかでも篆刻を得意としました。
高芙蓉は、当時はやっていた明・清ふうの作風を低俗だとして退け、はるか昔の秦・漢の古印を手本にしました。この格調の高い作風が日本の篆刻を一変させたとされ、高芙蓉は「印聖」と呼ばれています。当時の日本では、漢の印の実物をほとんど見られませんでした。それでも、作品の気品の高さには並ぶ者がいないと、事典は評しています。1784年、仕官のために江戸へ下りますが、着いてまもなく数え年63歳で亡くなりました。
高芙蓉の門下からは、曾之唯、葛子琴、前川虚舟、初代の浜村蔵六など、多くの印人が出ました。一門の作風は明治の初めまで、日本の印壇(篆刻家の世界)で広く受け継がれました。京都で学んだ技が門人を通じて江戸へ伝わっていった様子は、浜村蔵六の家系によく表れています。
- 京都の高芙蓉秦・漢の古印に学ぶ作風を打ち出し、多くの門人を育てました
- 初代 浜村蔵六伊勢(いまの三重県)の人で、京都の高芙蓉に印刀の使い方を学びました。のちに江戸に住んで名を知られ、師の墓碑も彫っています
- 2代目 浜村蔵六幕府の命令で、朝鮮通信使に渡す文書の官印を彫りました。浜村蔵六の名は明治まで受け継がれました
高芙蓉の門人のほかにも、文人や学者のなかに篆刻を得意とする人がいました。世界大百科事典は、京都に私塾を開いた頼山陽、京焼の陶工の青木木米、書家の貫名海屋などの名を挙げています。
明治の御璽と、近代京都の印壇
明治時代に入ると、京都の印人は国の印も手がけます。いまも国の文書に押されている天皇御璽(ぎょじ)と大日本国璽(こくじ)がそれです。御璽は天皇の印、国璽は国の印を指します。京都府によると、明治7年(1874年)に中京区の安部井櫟堂(あべいれきどう)が1年がかりで制作しました。漢の印にならった篆書(漢印篆)で堂々とした字が彫られ、純金製で重さは4.5kgにもなります。その前の御璽と国璽を作ったのも、京都の中村水竹でした。2人の名前は、世界大百科事典でも明治の初めに活躍した印人として挙がっています。
明治の半ば以降は、中国に渡って清の末の篆刻家に学んだ人たちが帰国します。その新しい作風が、日本の篆刻界の主流になっていきました。大正から昭和にかけて京都の篆刻界の中心にいたのが、園田湖城です。京都の藤井有鄰館(ゆうりんかん)では、主事として中国の古い印を整理しました。昭和10年(1935年)に退職したあとは、篆刻に専念しました。20世紀日本人名事典は、湖城を「京都印壇の盟主」と記し、京都書道連盟を創設して会長を務めたことも伝えています。
明治から大正にかけての京都には、日本の文人画の最後の代表的な作家とされる富岡鉄斎もいました。書と画と印が一体となった文人の世界は、近代の京都でも続いていました。
篆刻と京印章のつながり
京都の職人が伝統の技法で作る印章を「京印章」と呼びます。京都府は、京印章が中国の漢の時代の銅印の作風を受け継いでいると紹介しています。漢印篆を主にした、重厚で上品な味わいのある印章が多いのが特色です。高芙蓉が手本にした秦・漢の古印と、同じところに源があります。
実用の印鑑と篆刻の作品は別のものですが、印章の職人のなかには篆刻を学んだ人もいます。当店の職人、池上翠雲も京都の出身で、篆刻家の故・村上石堂氏に師事しました。印章業界の展覧会「大印展覧会」では、篆刻の部、角印の部、書道の部で入選しています。お名前の字を篆書体でどう配置するかを考えるとき、篆刻で身につけた字の組み立て方が生きています。京印章の特徴と職人の技は京印章とは?で紹介しています。
落款印を知るための4つの言葉
篆刻や落款印について調べると、見慣れない言葉が出てきます。よく目にする4つをまとめました。
落款
「落成の款識(かんし)」を略した言葉です。書や画を仕上げたときに、作者が名前を書いたり印を押したりすることを指します。その署名や印そのものも落款と呼びます。
側款
印の側面に彫った銘です。作者の名前や彫った日などを刻みます。日本大百科全書は、押す面だけでなく、この側款も大切にされると書いています。
鈕
印の上のつまみです。ただのつまみから発達して、獅子や亀などをかたどった小さな彫刻になりました。石の色や模様とあわせて、印材そのものが愛でられます。
印譜
古い印や篆刻の印影を集めて本にしたものです。高芙蓉の主な作品にも『芙蓉山房私印譜』などがあります。印譜は研究や鑑賞の対象になり、集める人も多くいます。
落款印の種類や、書道を始める方に贈る時期は退職祝いに落款印を贈る前にで説明しています。篆書体の成り立ちは印篆とは?が参考になります。
よくある質問
篆刻と印章彫刻は、同じものですか
どちらも印に字を彫りますが、ふつうは分けて考えます。篆刻は、文人が作品に押す印を自分で石に彫る芸として発達しました。印章彫刻は、実印や銀行印のような実用の印を、職人が注文を受けて硬い印材に彫る仕事です。
高芙蓉は京都の生まれですか
生まれは甲斐、いまの山梨県です。20歳のころに京都に出て儒学を学び、池大雅(いけのたいが)らと交わりながら篆刻の第一人者になりました。亡くなったのは、仕官のために移った江戸です。
ダルマ屋印房で、落款印や篆刻の印を作ってもらえますか
当店がお作りしているのは、実印・銀行印・認印と会社の印鑑で、落款印は扱っていません。篆刻で使われるのと同じ篆書体で、お名前の印鑑をお作りすることはできます。書体は、書道でも習う篆書体や隷書体などから選べます。
篆書体の実印は、京都市で登録できますか
登録できます。京都市の条件は、大きさ、住民票の氏名を表していること、外枠があることなどで、書体の指定はありません。ただ、「印影が鮮明で文字の判読が容易であること」という条件もあります。気になる方は、彫る前に印影を確かめておくと安心です。登録の手順は京都で実印を作るで説明しています。
まとめ|京都と篆刻をたどるときの順番
まず、篆刻が文人のたしなみとして中国で生まれ、明の文化とともに日本へ伝わったことを押さえます。京都では、宇治の萬福寺や東山の売茶翁のまわりに、明の書や煎茶を楽しむ文人の輪がありました。その京都で高芙蓉が、秦・漢の古印に学ぶ作風を打ち出し、日本の篆刻を一変させます。
次に、その流れが門人を通じて江戸へ広がったことをたどります。明治には京都の印人が御璽を彫り、昭和には園田湖城が京都の印壇を率いました。最後に、漢の印にならう重厚な字が、いまの京印章に受け継がれていることに目を向けます。そうすると、実用の印鑑と篆刻のつながりが見えてきます。
篆刻を学んだ職人が、篆書体でお名前の印鑑を作ります
京印章制作士が、お名前の字に合わせて配置を考え、1本ずつ制作します。通常の印鑑には京印章証明書が付きます。印鑑ケース付き、送料無料、5年保証です。書体を変えても価格は変わりません。

